スタツア勉強会 第1弾 ~『夜と霧』読書会~

  みなさんこんにちは! 少しお久しぶりになりますね。

 

 ブログが更新できなかった間にも、ICU UNESCO CLUBでは新入部員の方々をお迎えしながら、お互いの交流を深める活動を続けてきました。

 そして、冬学期は本格的にチェコ・ポーランドスタディツアーに向けての勉強に重点を置いて活動を進めていく予定です。先日開かれた記念すべき第一回目の勉強会では、初の試みを実施。それは、読書会! ヴィクトール・フランクル著の『夜と霧(Man’s search for meaning)』を各自で読んできたうえで勉強会を進めていきました。

 

当日の流れ

 

1 まず、各自が本書を読んで感じたこと、考えてきたこと、また調査してきたことを口頭発表。そして、各々がその着眼点を活かしたディスカッションクエスチョンの提示も行いました。

2 次に、同じような関心・疑問点を持っている人同士で三人が1グループになり、ディスカッション第1部を行いました。

 

3 さらに同グループの3人がそれぞれ別のグループの人と新たに集まり、第1ディスカッションで話した内容の共有と、そこからさらに発展させた議論の展開をしました。

 

4 最後に、現地へ行った際に今回の勉強会がどう生かせるか意見を出し合い、勉強会を終えました。

 (↑始めの口頭発表だけで、ディスカッションクエスチョンがこんなに…!)

 

 

↓部員からの意見をたっぷりと↓ 

 

印象に残った記述は?

「「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ」(フランクル、122

「人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を超えて引かれるのだ」(フランクル、144

 

「この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを」(フランクル、144-145

 

「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ」(フランクル、129

 

・ディスカッションで話題になったこと

  無事に解放された強制収容所の被害者の一部が、後の生活で「今度は自分が加害者になっても良いのだ」という見当違いを起こしていたとの記述について。

 

→歴史教育の視点から考察した結果、アメリカや日本での被害者としての視点にやや偏った、事実を並べること中心の教育に対する疑問が湧いた。このような見当違いを防止するためにも、ドイツの歴史教育にあるような、被害国としてだけではない自国の「加害」の歴史にも向き合う姿勢がほしい。

 

→教育を受けることは一歩離れた場所から自分を見つめなおすことを可能にする。ゆえに、加害を行っても良い、と考えてしまう人とそうでない人の違いは「教育」を一つの基本として生まれるものではないだろうか。

 

 

 フランクルの述べる「苦しい人生にも意味がある」という部分について。

 

→その意味を見出すには、苦しみを人生の中でどう生かしていくのか、という課題を自らの力で具体的にしていくことにかかっている。周りの環境や希望にすがるのではなく、己の意思が重要なのである、という解釈を行った。

 

→この言葉は、強制収容所という特殊な状況下を考える以上に、私たちがいま普段通りに暮らしている日常生活の中、「いまここ」の唯一性の中で自分がどう生きるのか? を問うているのではないか。

 

いかがでしたでしょうか。

 

冬休み明けからもスタツアに向けた勉強会を随時開催していく予定です! 

部員以外のみなさんのご参加もおまちしております!

 

 それでは、また次回のブログでお会いしましょう♪

 

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